ミステリーとしての『ひぐらしのなく頃に』の問題点-まとめ

 こちらあたりを参考にしつつ。というか←のまとめ+αくらいな感じですが。

 例によって「皆殺し編」までのネタバレを多分含むので隔離。


 私が思うに大きく分けて2点。

  • 問題編ですべてのヒントを提示しなかったこと。

 わかりにくく書けば境界条件をはっきりさせなかったこと、ということになるでしょうか。

 多くの方が指摘しているように、祟殺し編(+暇潰し編)までのいわゆる問題編でのヒントから、皆殺し編の解答を導き出すのはまず不可能です。なぜなら、解答に登場人物の妄想や超常的な現象、巨大規模の組織といった要素が絡んでくるからです。これらはいずれもミステリでは一般的に「アンフェア」だとされる解答です。

 もし問題編のうちに、それらの存在が示唆されていたなら問題はなかったのですが、実際はそうではなかった。この状況で、それらの存在を前提に推理する人間はごく少数でしょう。少なくとも問題編までは「既存のミステリの文脈に従って物語が描かれている」と多くの読者が認識していたはずです。である以上、推理もまた、既存のミステリの文脈に従って(いわゆる「犯人当てゲーム」としての推理が)行われるのは当然のことであり、またそうした読み方をした人が「ひぐらし」を批判するのも当然と言えます。*1

 この考えは一見こちらの主張によって否定されるように思えますが、私が思うに問題編の時点で「ひぐらし」が既存の本格推理モノと違うということは、多くのプレイヤーが感覚的に認識していたのではないでしょうか。「ひぐらし」の推理を試みていた人の多くは、その上で事件の裏にひそむ黒幕を暴き出そうとしていたように思います。こうした前提で「ひぐらし」を本格推理モノとして読むことは間違ったことだとは思いませんし、これが成り立つのなら前述した「アンフェアだ」という批判もやはり成り立つのです。*2


 具体的に述べてみます。こちらに作者・竜騎士07氏のコメントが引用されているので孫引きさせていただきます。まずはこちらをご覧ください。

実は私が推理して欲しいのは、事件の犯人じゃなくて、この物語のルールがどんなものかを推理して欲しいんですよ。各シナリオの最大公約数的な設定、舞台裏の仕掛けを皆に見つけてほしい。

 とのことですが、これは解答から逆に考えると「『事件の裏に<東京>という組織が存在していて、その一派である鷹野三四が雛見沢大災害をはじめとする様々な事件を手引きした』ということを看破して欲しい」ということになります。これって要するに「事件の黒幕」であり「事件の犯人」そのものですよね。つまり推理すべき対象が「各シナリオの最大公約数的な設定」であると気づきさえすれば、あとの構成は本格推理モノと何ら変わりないはずなのです。そして、ほとんどの人は改めて意識するまでもなくそのことに気づいていたと私は考えています。個々のシナリオの推理に固執しているように見えるのは、それが最終的な真相に至るまでに必要な過程だと考えられていたからでしょう。*3

 しかし前述した真相は、本格推理的アプローチをしている限り絶対に導き出せません。本格推理では<東京>のような物語外部の存在を犯人にはしない、というのが暗黙のルールだからです。こうした流れをもって「こんなの推理ものじゃない!」という意見に対する反論の反論となるかと思います。

  • ことさらにプレイヤーに「推理させる」ように仕向けたこと。

 ここまで一般的なミステリの認識から「ひぐらし」を批判してきましたが、これらの批判はそもそもプレイヤーが推理することを前提にしていなければ起きなかった問題でもあります。

 一般に言うミステリ作品でも、読者に推理することを要請する作品というのは実はまれです。むしろミステリというのは、主として解答を提示するプロセスを通して読者にカタルシスを与えることを目的としているのであり、解決編以前に読者に真相を看破させることが目的ではありません。倒叙モノ*4という、読者が推理する余地がそもそもないような作品もあるくらいです。解決編の前に「読者への挑戦状」を提示するような作品も中にはありますが、これはむしろパフォーマンスと見るべきであり、真に真相を看破して欲しいと思っているわけではないはずです(ここで簡単に真相を突き止められるような作品は、むしろ駄作の烙印を押されることでしょう)。読者の側も「何としてでも真相を突き止めよう!」と考えながら読んでいるような人はむしろ少数派でしょう。

 その点「ひぐらし」は、様々な形でプレイヤーが推理することを強いて(と言って過言ではないと思います)きました。問題編と解答編が明確に分かれていることなどはそのわかりやすい例ですし、「正答率1%」という触れ込みも、読者を煽っていると見ていいでしょう。竜騎士07氏自身もどの編かのスタッフルーム(確か罪滅し編皆殺し編)で「『推理する』ということをして欲しい」というようなことを語っていました。ならば、推理しながらプレイしていたプレイヤーを満足させる解答を用意しておくのは当然の義務です。

 けれど蓋を開けてみれば、頑なに推理に固執したプレイヤーからは批判を受け、賞賛するのは途中で推理を放棄したプレイヤーばかり、という結果に。その原因は上で書いたとおりですが、プレイヤーに対して推理することを促さなければ、批判はもう少し少ないものになったのではないでしょうか。推理しようとさえ思わなければ「ひぐらし」はホラー、あるいはサスペンスとして十分に楽しめる作品なのですから。
 

「世界のルールを推理させる」という「ひぐらし」の試みは非常に意欲的なものだと思いますし、興味深くもあります。しかし「ひぐらしのなく頃に」という作品は同時に、そのコンセプトを軸にしっかりと完成された作品を成り立たせることが非常に困難であることを証明してしまったように思います。

「推理させる」という点を除けば、話が進むにつれて世界の謎が明らかになる、という構造の作品はすでにいくつも存在しています(最近では、福井晴敏の作品が似たような構造を持っています)。問題はそれを読者あるいはプレイヤーに「推理させる」という点で、推理する対象が「世界のルール」であると明示した時点でほとんどネタが割れたようなものですし、明示しなければ今回の「ひぐらし」のように、境界が曖昧なことにより推理不可能という結果になってしまいます。この板挟みを巧みに免れ、ひとつの作品として完成させることがはたして本当に可能なのか(そしてできた作品が本当に面白いのか)、私には見当もつきません。

 繰り返しになりますが、「推理させること」はミステリの本意ではありません。そのことを深く考慮しないまま読み手に推理させようとしたらどうなるか、その生きた実例となったというだけでも「ひぐらしのなく頃に」という作品の意義は小さくないと思います。

*1:祟殺し編で、雛見沢大災害というどう考えても単独犯は不可能だろうという事件が描かれた時点で論理的な推理を放棄した人はそれなりにいると思いますし(私もそのひとりです)、一応、これをもって条件の境界が広がったと見ることもできるかもしれませんが、単に広がっただけで厳密に定義されたわけではないですし、条件としてはまだまだ不十分でしょう(少なくともこの時点ではまだ「犯人は村人全員」という風に、村の内部要素のみを用いた解答を提示することが可能。である以上、外部組織が絡んだ解答を正解とするのはやはりアンフェアであると言わざるを得ない)。

*2:要するに「ひぐらし」に対する「こんなの推理ものじゃない!」という批判は「既存の推理法が通用しないこと」に対するものと「境界条件が曖昧であること」に対するものというふたつのパターンがあるわけです。前者であればプレイヤーが批判されるのも仕方ありませんが、後者は作品上の瑕疵を指摘するものであり、甘んじて受け容れなければならない点だと思います。

*3:つまり、各シナリオの事件について推理し、それを満たす個人なり集団なりを真の黒幕として導き出す、というアプローチ。

*4:冒頭で犯人が示され、その後は探偵役がどうやって真相を突き止めるか、といった点に焦点が合わせられる作品。「刑事コロンボ」「古畑任三郎」のシリーズが有名。