こちらについて。本しか食べられない一族、という作中設定の話は置いておくとして。

 自分の記憶がたしかなら、遠子先輩のキャッチフレーズは「“物語を”食べちゃうくらい愛している文学少女」であって、“本を”とは一度も書かれていなかったように思う。つまり遠子先輩にとって本当に大事なのは、本に書かれた内容であって本そのものではない。中身を読むだけなら、食べてもまた買い直せば済む話だし。*1

 一方の『ビブリア古書堂』は、本の中身にまったく目を向けてないわけではないにしろ、それ以上に「大量生産品である本も、一度読者の手に渡ることで内容とはまた別の次元の価値が生まれ、唯一無二のものになりうる」ということ、そしてそこから生まれるドラマを書こうとしている。『文学少女』で扱われる本が基本的に小説であるのに対し、『ビブリア古書堂』では小説以外の本も取り上げているというのは、その差異を示す端的な一例であると思う。

 「本を食べる」というのが、そこに込められた作者の精神性をも食らうような、ある種おぞましい行為だという見方は理解できる。だからこそ、それがどんなものであっても分け隔てなく物語を愛し、そこに込められた書き手の思いをも「本を食べる」という行為を通じて自分のうちに取り込み、血肉として生きている遠子先輩というのは、なんかもう、人という枠ではくくれない、物語の神様……というか菩薩みたいな存在と言えるのではないだろうか。*2

 たしかに遠子先輩は本のコレクターではないかもしれないけれど、決して「文学少女」を名乗る資格がないわけではないし、作品のテーマとしてブレがあるわけでもない。『ビブリア古書堂』が『文学少女』に対する批判的な意図をもって書かれたのかどうかはわからないけれど、少なくとも両者は似ているようで、そもそも向いている方向が全然別だ、とは言えると思う。


 それはそうと自分は遠子先輩と栞子さんだと遠子先輩のほうが好きです。栞子さんはちょっとあざとい(主に乳が)。

*1:事実、誤って図書館の本を食べてしまった遠子先輩がその本を買い直すエピソードがある

*2:その意味では、心葉くんが言うところの“妖怪”というのもあながち間違ってないと思う