寸止めとぱやぱやのあいだ

 呼ばれた気がしたので。

 とりあえず、エロ度が高いということで安易に美少女文庫と比較したkim-peace氏には猛省を促したい所存。美少女文庫も『ゼロの使い魔』も両方好きな立場からいうと、美少女文庫(というかエロ小説全般)のエロさと『ゼロの使い魔』12巻のエロさは二重の意味で根本的に違います。

 『ゼロの使い魔』では、ぱやぱや*1を予感させるシチュエーションを何度も登場させながら、いずれも最後はぱやぱやにまでは至らずに終わります。そんな『ゼロの使い魔』は、ぱやぱやのあるエロ小説に劣る存在、またはエロ小説があれば不要な存在なのでしょうか。

 答えは「否」です。

 世の中には数多くのポルノメディアが溢れています。しかしそれらはいずれも向こうから一方的に与えられるものであり、100%こちらの好みを満たすものではありません。自分の好みを完全に満たせるのは、自分の想像の中だけです。つまり、この世界で最も自分にあったエロスを具現化できるのは、ほかでもない「我々自身の想像(妄想)」なのです。

 もっとも、完全にゼロから想像を喚起するのは困難です。少なくとも最初は、導火線となるなにかがあったほうがいい。その点『ゼロの使い魔』のような、「それらしいものをにおわせつつも、最終的には寸止めで終わる」という作品は、まさに格好の導火線と言えます。ぱやぱやの予感を感じさせつつ、最後は必ず寸止めで終わる。このギャップが、我々を妄想へと向かわせる起爆剤になると同時に、妄想の強度を高める効果を発揮するのです。

 直接的なぱやぱやを描くことを目的とするエロ小説と、あくまでその直前にとどまり続ける『ゼロの使い魔』。両者では、根本的に存在意義が異なります。

 ヤマグチノボル氏自身は、エロゲーライター出身であり、美少女文庫の著作もあるように、決してぱやぱやが書けない作家ではありません。しかし、12巻のあとがきにはこうあります――『パンチラはみだりに使用するべからず』『真のパンチラは“チラ”すら行わず。心の目で見るものなり』と。ここに、「妄想の導火線」としての『ゼロの使い魔』に賭ける、著者の意気込みを感じ取ることはできないでしょうか。*2

 さて「想像」が一番エロいというなら、とりあえず寸止めシチュエーションに溢れた『ゼロの使い魔』12巻を読んで、想像を働かせれば良いのでしょうか。

 これもやはり、私の答えは「否」です。なぜなら、土台に対するしっかりとした理解がなければ、妄想力を最大限に発揮することはできないからです。

 ここでいう「土台に対する理解」というのは、要はキャラクターに対する理解です。そして前回も書いたように、キャラクターの魅力というのは単純な属性、シチュエーションで決まるものではありません。少なくとも小説においては、描写の積み重ねによって生まれるものです。『ゼロの使い魔』には、12巻に至るまでの積み重ねがあり、そのキャラクターたちは、そうした積み重ねがあってこそ、そこ(=12巻の時点)に存在しているのです。である以上、いきなり12巻を読んだところで、キャラクターを理解したとはいえず、妄想力を十全に発揮することもできないのです。

 なんちゃってラブコメエッチなシチュエーションを楽しみたいだけなら、1〜11巻を飛ばしていきなり12巻を読むのもいいでしょう。しかしその結果得られる感動や妄想への起爆力は、11巻まで読んできた場合のそれと比べて確実に小さいものとなるでしょう。同時にそうした読み方は、寸止め文化の旗手たる『ゼロの使い魔』という作品を読む上で、非常にもったいない読み方といわざるを得ないのです。

 というわけで、ゼロの使い魔』12巻を読むなら1巻からきちんと読め。(うけけけ)というのが私の結論なのでした。

*1:何を意味するかはまあ、各自で。

*2:その点12巻はかなりモロに近く、想像喚起という点ではかなりギリギリだと思いますが。