SFファン交流会参加レポ(前編)
SFファン交流会の7月例会に参加してきました。今月は作家の新城カズマ氏をゲストに迎え、「『ライトノベル「超」入門』を語る」ということで、本についての補足や裏話を数多く聞かせていただきました。単純にお話として聞いていて面白く、参加してよかったと思える会となりました。
以下、簡単ではありますが会の様子をレポートしたいと思います(内容については筆者に文責があります。誤りに関する責任は筆者に帰するものであり、新城氏ならびに会の関係者とは無関係です)。
会では「ライトノベル『超』入門」(新城氏の周囲ではこの本は「ノベ超」と略されているそうです。以下当記事でもそれに倣います)の各章のタイトルと小見出し、2章のキャラ類型解説をまとめたレジュメが用意され、本の内容を頭から追っていくという形で進められました。
- まえがき
- ノベ超が出版された理由としては、新城氏が代表取締役を務めるエルスウェアが日経BP「ライトノベル完全読本」の編集を担当していることが大きい。これがきっかけで「ライトノベルの専門家」のように見られることが多くなり、結果ノベ超の刊行に繋がった。
- 企画段階では「柳川房彦」の名義でよりジャーナリスティックに書く予定だったが、いつの間にか「新城カズマ」の著作ということになっていた。ただそうなったことは結果として幸いだったと思う、とのこと。
- 「完全読本」を出版するに至った動機としては、02〜03年頃にライトノベルの歴史をまとめる必然性を感じるようになったから、とのこと。これは、メディア等は誕生から15〜20年で大きな変化が起こるという歴史観と、ジャパニメーションへの注目が大きくなることで、おたく文化が曲解されていく恐れがあり、その前に陣地を固めたかったという主にふたつの理由による。ただ製作過程で当初の考えとはかなり違うものになってしまった部分があり、その反省の意味も込めてノベ超を出版した。
- 1章
- この項を書くにあたって「ライトノベル」という名称の発案者を探したが、実は意外に近くにも新城氏の友人の友人にいて、webの力というものを実感した。
- 新城氏自身は「ライトノベル」という名前を97、8年頃に初めて聞いたが、当時はあくまで「富士見の本」「電撃の本」というようなくくりで見ており、それらをひとまとめにする必要性は特に感じなかった。むしろ「自分には関係ない」という意識や、違和感のようなものを感じていた。
- このころは書店側も置き場所を悩んでいたと思われる。
- 読者サイドの認識としては、ライトノベル・フェスティバル(LNF)の第0回がティーンズノベル・フェスティバルと名乗っており、当時はまだライトノベルという名称が浸透していなかったことを示している。読者の側でもこの名称が本格的に広まってきたのはここ2、3年のことではないか、という意見が。
- 質問「『ライトノベル』に名称が収束していく過程で作風は変わったか?」
- 回答「自分自身には『ライトノベル』を書いているという意識はない。レーベルによって作品内容を変えようとしている部分はある(レーベルによる読者の年齢や男女比の違いを意識)。中高生向けということで、漢字をひらいたり、(中高生対象だからではないかもしれないが)上からものを書かないようにするということは気にかけている」
- たとえばジュブナイルには大人が子どものために書いているという側面がある。これに対してライトノベルでは同時代性、同世代性が重視される。もしかするとこれが「ライトノベルを書く」という意識なのかもしれない。
- またアメリカの「ヤングアダルト」には、暴力やセックスの問題を描くといった、「社会と向き合う」という要素が含まれ、やはりライトノベルとはそぐわない部分がある。そもそもアメリカには日本のおたく文化のようなものはなく、両国では若者文化に隔たりがある。こうした点を踏まえた、日本におけるライトノベルの誕生と興隆の分析は、より専門の人にぜひやって欲しいところ。
- 第2章
- ノベ超を作る過程ではもちろん新城氏自身だけでなく、もちろん周囲のスタッフの手が様々に入っている。その間に書いたはずのないギャグ(笑)が入っていたりもするが、そうした周囲の協力もあっての「新城カズマ」である、とのこと。
この後、キャラ類型解説の内容について、新城氏自身の思い入れや解説がたっぷりと語られた。とても全部は書ききれないので以下一部を抜粋。
- メガネっ娘
- 委員長
- 巨乳・貧乳
- 戦闘美少女
- 人造少女
- 戦後おたく文化の中で非常に重要な位置を占める(ピグマリオンコンプレックスとの関わりとか)。長野のりこの作品の中に「キーボードがついている彼女が欲しい」(※うろ覚えです)みたいな象徴的な台詞がある。今日の先駆けとなったのは恐らく柴田昌弘の作品。
- 柴田昌弘は師匠筋にあたる和田慎二とともに今日のおたく文化に繋がるモチーフ(メイドなど)を十数年以上も前に作中に数多く登場させており、今日のキャラクター類型を理解する上でこのふたりは非常に重要。
- 最近ではやはりマルチがエポックメイキングか。
- メイド
- メイドは好きだがメイド喫茶には行かない、というのもメイド喫茶のコスチュームはミニスカートが多いから。原理主義者的には主がいて、屋敷があって、荘園があって、というような周囲のモチーフも重要。本来は職業であり、身分差の問題なども描かなければいけない(ゆえに「エマ」はやはり偉大)。現在のメイドはメイドというよりカフェの女給であり、コスチュームにポイントがシフトしている。
- 筆者から、非おたく層を客層に取り込む必要があるため、地方都市に行けばロングスカートのメイド喫茶も多いと指摘、こうしたおたく文化の地域差というものを理解することも大事だ、と新城氏。
- どういう文脈かは忘れてしまいましたが、B級SFと少女漫画の濃いところには同じものが存在している、というような話が。
- 猫耳
- ツンデレ
- 「ライトノベル」という名称が誕生するよりあとに名前が生まれた、おそらくは最初の属性。ノベ超内にもある「読者の手法」が広く発揮された例であり、将来歴史的に重要なタームになるのではないか。
- 梶原一騎作品のキャラクターは男ツンデレ。
- 作家はキャラクターの周囲を固めてキャラクターに関わる要素を増やす、という作業を行うが、読者は逆にそこから周囲を削ってキャラクターを取り出す、という作業を行う。この点において読書というのは極めて能動的な行為であり、またそうしてキャラクターを微分していくというのは読者の正当な権利。時には妙な風に解釈されてしまうこともあるが、そうして読者によって様々な見方をされるのが作家としてありがたくもある。
会はここでいったん休憩に。レポの後半は明日更新予定です。