「本格」としての「ひぐらし」を改めて考えることは、議論をさらに発展させる上で決して無意味ではない

 『ひぐらし』の”ミステリ的な”魅力について(『ひぐらし解』の多重解決構造)

 うーん、なんでこんな反応になっちゃうんでしょうか。

 私は先の記事において、たしかにミステリ的見地から「ひぐらし」を批判しましたが、だからといって「『ひぐらし』という作品の価値がゼロ」だなどとは一切書いていません。ついでに言えば、記事を書くにあたって不快になったり怒ったりしたようなこともありません。ミステリの体裁をとって売り出された「ひぐらし」が、現在はミステリとして見たときに批判の対象になっている。では一体何が問題だったのか、ということを、私なりにできる限り冷静な目で分析しただけの話です。分析という行為において不快だとか怒りだとかいった感情的なものは邪魔なだけであり、書く際にそういったものは極力排除したつもりです(その意味では大元は批判ですらありません。問題があったから結果的に批判することになっただけです)。それを「感情にまかせて批判」みたいな書き方をされるのは非常に残念です。

 同様に「長所を楽しむ方が有意義」といった主張にもまったく興味はありません。有意義だろうが無意味だろうが、批判するべきところはきちんとするべきだと思います。おそらくはあちこちで「『ひぐらし』はミステリとして駄目だ」みたいな意見を読んでいい加減うんざりしていることと推察しますが、そこで感情論を持ってくるのは単なる逃げでしかないと思います(少なくとも自分の先の記事は、感情にまかせた凡百のミステリ的「ひぐらし」批評とは一線を画すものであると自負しています)。有意義という話を持ち出すなら、批判的意見を「ここを改善すれば『ひぐらし』はもっといい作品になった」という指摘だと捉えたほうがよほど有意義だと思うのですが。

 ちなみに私は全体として見たとき、「ひぐらし」は読み物としてそれなりに面白い作品だと思っています。日常部分がしばしばかったるいのと解決編後半の少年漫画的展開があまり好きではない一方、ホラーテイストの部分は十分楽しめたので、話によって波はありつつも総合的には決して嫌いな作品ではないです。


 ついでなので「ひぐらし」批判派(とあえて自称しますが)としての疑問を述べますが、「ひぐらし」のミステリとしての問題点を自覚しながら、その問題についての解決策を提示しないまま「ルール推理」といった話を持ち出してこられるのかがわかりません。

「『ひぐらし』のルール推理性は本格推理的にアンフェアな構造の上に成り立っている」みたいなことを21日の記事のコメント欄でも書いたのですが、これは逆に言えば「アンフェアな構造を解消しない限り、ルール推理は成り立たない」ということです。「本格推理としての問題」と「ルール推理関連の問題」は決して無関係ではありません。どちらも物語構造に深く関わってくる問題だからです。ミステリ的な批判を「感情的な批判」のひと言で切り捨てるのではなく、「それが何を意味するのか」「その問題がどこにどう関わるのか」を、「ルール推理」といったものを考える側として考えていってもいいのではないでしょうか。

 そもそも私が「本格」にこだわる理由は、それが「推理する」ということを考えるにあたって非常に重要だからです。「本格」における「推理」=狭義の「推理」であり、そこには「推理するためには本格として成り立っている必要がある」という大前提があります。つまり狭義には「推理可能かどうか」は「本格としての条件を満たしているかどうか」と言い換えることができるのです。これは「ルール推理」においても同じことです。「ルール推理の可能性」と口にする人が、「推理」を狭義と広義、どちらの意味で遣っているのか私にもよくわからないのですが、狭義の「推理」を採用してこそ「可能性がある」と言えるのではないでしょうか。


 21日にあれこれ書いてみたことをきっかけに「ひぐらし」を肯定的に捉えている方の意見をいくつか読んだのですが、ことあるごとに作者竜騎士07氏の発言を取り上げて肯定しているような印象を受けました。たしかに作者の意図を把握した上で全体を俯瞰してみると、「ひぐらし」は素晴らしい構造をもつ作品なのかもしれません。しかしだからといって、ミクロな視点、すなわち実際にプレイしたときの問題点が消えてなくなるわけではありません。作品としての可能性を論じるなら、同時にそちらにも目を向ける必要があるはずです。個人の思考・思想を賞賛するのは自由です。ですがそろそろ、その思考を作品として昇華することが本当に可能なのか、具体例など交えつつ分析していくべき時期なのではないでしょうか。


 最後に、冒頭リンク先で、

ネット上で議論するのであれば、むしろ「追加ヒント/エラッタ/修正パッチ」になりうる作者発言を全く考慮しない方が不自然だと言えるのではないでしょうか?

 と述べておられますが、暴論というならむしろこっちのほうがはるかに暴論でしょう。

 ネット上だろうがオフラインだろうが、「作中に提示された証拠のみを用いて真相に迫る」、すなわち推理するにあたって、「作中外の要素」である作者発言を考慮する必要はどこにもないでしょう。最初から掲示板なり日誌を見ることが前提となっているならともかく(というかそれ以前にそもそもその内容を作中に書いておけ、と思いますが)。仮に軌道修正としての作者発言を認めるとしても、その場合プレイヤーに届けるべき義務を負うのは作者側であって、プレイヤーから進んで情報を集めにいかなければならないというのはどう考えてもおかしいと思います。