ミステリーとしての『ひぐらしのなく頃に』の問題点-まとめ(補遺)

 21日のエントリに関連して、より深く切り込んだ記事があったので紹介させていただきます。
こぐにと、 cognit,
 私のエントリと同様「ひぐらし」のミステリとしての問題点を指摘しつつ、その先の「ルール推理」の問題についても言及されてます。しかも実際にプレイしたのは体験版まで、とのこと。さすがにそれだけではここまでの内容は書けないと思いますので、他の方の感想も併せて考察していったのだと推察しますが、だとしても見事な分析だと思います。自分の21日の記事はあくまで「ミステリとして見たときの問題点を自分なりにまとめる」ことを主題としていたので「やられた!」みたいに思ったというようなことはないのですが(笑)、世間はもう次のステージに進もうとしているのだなあ、と自分のアンテナの低さを再確認した次第なのでありました。


 以下、上記エントリをきっかけに色々考えたこと(内容的にはあまり関連はありません)。

 先の記事を書いていたときにずっと気になっていたのが「『ひぐらし』に本格ミステリとしての原則をどの程度適用すべきか」ということです。先の記事でも書いたように、私は「ひぐらし」問題編においては本格推理モノとしての要件を十分に満たしていると判断し、その後の内容も本格ミステリの文脈に従って綴っていったのですが、これはあくまで私の主観に基づく判断であり、どこまで適用すべきなのか正直自信がありませんでした。「推理」という言葉ひとつとっても、私は本格ミステリの原則に基づいた「推理」*1を用いていましたが、単純に「考える」「(妄想なども含めた)解を探す」といった意味で捉えられているのなら、私の考えはずいぶん空回りしたものになっていたと思います。

 しかしその後あちこちで「ひぐらし」関連の記事を読んだ限りでは、作者における「ミステリ」の定義に問題があったということは多くの方が認識しているようなので、私の主観も世間とそうずれていなかったのかなあ、と思った次第。


 ついでに「ルール推理」の可否についても(やはりミステリ的観点から)私見を述べますが、結論から言うと限りなく不可能に近いんじゃないかと思います。

 上記記事内「補足:ミステリは推理可能か」から引用させていただきますが、

全ての本格推理小説において、探偵は作品内で犯人を論理的に突き止めることが不可能、ということが、後期クイーン問題として昔から議論されています。(中略)ただし、これは「作品内の探偵」に与えられる制約であって、ひぐらしには当てはまりません。

 後期クイーン問題というのは「作中の探偵が、すべての証拠を手にしたことを論理的に証明できるか」という疑問に端を発する本格ミステリ上の重要問題(らしい)ですが、これがなぜ「ひぐらしには当てはま」らないかというと、もちろん「ひぐらし」においては「探偵=プレイヤー」だからです。「プレイヤー(読者)が推理する」という前提において、証拠はゲーム中(文中)で提示されたものがすべてでなければなりません(でなければ、推理ゲームとして明らかにアンフェアです)。「すべての証拠を手にしたことを論理的に証明」するまでもなく、問題編を終えた時点で探偵であるところのプレイヤー(読者)は必ずすべての証拠を手にしている(手にしていなければならない)のです。

 ところが「ひぐらし」においては、問題編の時点では予測不可能な新事実が解答編になって相継いで公開されるなど、「問題編を終えた時点で探偵であるところのプレイヤー(読者)がすべての証拠を手にしてはいない」という状況が生じていました。「ひぐらし」における「ルール推理」は、このような「推理ゲームとしてアンフェア」な状況の上に成立していまた。この点で「ひぐらし」は「ルール推理モノ」として明らかに失敗しています。

 このような状況を打開し「ルール推理モノ」として作品を成立させるには、ルールが論理的に導き出せるように、十分な証拠を作中で提示する必要があります。「ひぐらし」を例に具体的に述べると、少なくとも「東京」の存在は明らかにしておく必要があるでしょうし、富竹や鷹野、入江が「東京」の人間であることも、明言とはいかないまでもある程度示唆しておく必要があるでしょう。ひとつひとつ丁寧に分析していけば、どの程度まで開示すればいいのかがある程度わかるでしょうが、恐らく実際はこんなものではないでしょう。

 推理する対象が「犯人」であろうと「ルール」であろうと「境界条件を明確にし、十分な証拠を用意する」という、推理する上での原則は変わりません。そのため必然的に「ルール」を推理する場合、非常に厳密で厳しい条件と、膨大な証拠を用意する必要があります(なにせ物語世界全体に関わってくるわけですから、当然です)。そこまでの証拠を用意して、なお「推理する」余地が残りうるのかどうか、個人的には非常に疑問です。

 ほかにも一応「推理する対象が『ルール』であることをあらかじめ明確にしておく」とか「『推理=広義の推理』であることを明示する」といった回避策も思いついたのですが、いずれも結果的に推理の楽しみを損なうものであり、たとえ作品を作ることができても、決して面白いものにはならないだろう、というのが私の結論です。


 結局のところ「ルール」は推理対象として向いてないんじゃないでしょうか。そもそも受け手に積極的に推理させる以上、そうでない場合以上に隙のない解答を用意しておく必要があるわけで、個人的にはあまりお勧めしないんですが。あ、もし「推理モノの楽しさ=みんなであれこれ意見を出し合ってわいわい騒ぐこと」とかいうのであれば私から言うことはありません。

*1:与えられた条件のみを用いて論理的に解を導き出すことが基本。妄想や未出の第三者の関与は不可。

「本格」としての「ひぐらし」を改めて考えることは、議論をさらに発展させる上で決して無意味ではない

 『ひぐらし』の”ミステリ的な”魅力について(『ひぐらし解』の多重解決構造)

 うーん、なんでこんな反応になっちゃうんでしょうか。

 私は先の記事において、たしかにミステリ的見地から「ひぐらし」を批判しましたが、だからといって「『ひぐらし』という作品の価値がゼロ」だなどとは一切書いていません。ついでに言えば、記事を書くにあたって不快になったり怒ったりしたようなこともありません。ミステリの体裁をとって売り出された「ひぐらし」が、現在はミステリとして見たときに批判の対象になっている。では一体何が問題だったのか、ということを、私なりにできる限り冷静な目で分析しただけの話です。分析という行為において不快だとか怒りだとかいった感情的なものは邪魔なだけであり、書く際にそういったものは極力排除したつもりです(その意味では大元は批判ですらありません。問題があったから結果的に批判することになっただけです)。それを「感情にまかせて批判」みたいな書き方をされるのは非常に残念です。

 同様に「長所を楽しむ方が有意義」といった主張にもまったく興味はありません。有意義だろうが無意味だろうが、批判するべきところはきちんとするべきだと思います。おそらくはあちこちで「『ひぐらし』はミステリとして駄目だ」みたいな意見を読んでいい加減うんざりしていることと推察しますが、そこで感情論を持ってくるのは単なる逃げでしかないと思います(少なくとも自分の先の記事は、感情にまかせた凡百のミステリ的「ひぐらし」批評とは一線を画すものであると自負しています)。有意義という話を持ち出すなら、批判的意見を「ここを改善すれば『ひぐらし』はもっといい作品になった」という指摘だと捉えたほうがよほど有意義だと思うのですが。

 ちなみに私は全体として見たとき、「ひぐらし」は読み物としてそれなりに面白い作品だと思っています。日常部分がしばしばかったるいのと解決編後半の少年漫画的展開があまり好きではない一方、ホラーテイストの部分は十分楽しめたので、話によって波はありつつも総合的には決して嫌いな作品ではないです。


 ついでなので「ひぐらし」批判派(とあえて自称しますが)としての疑問を述べますが、「ひぐらし」のミステリとしての問題点を自覚しながら、その問題についての解決策を提示しないまま「ルール推理」といった話を持ち出してこられるのかがわかりません。

「『ひぐらし』のルール推理性は本格推理的にアンフェアな構造の上に成り立っている」みたいなことを21日の記事のコメント欄でも書いたのですが、これは逆に言えば「アンフェアな構造を解消しない限り、ルール推理は成り立たない」ということです。「本格推理としての問題」と「ルール推理関連の問題」は決して無関係ではありません。どちらも物語構造に深く関わってくる問題だからです。ミステリ的な批判を「感情的な批判」のひと言で切り捨てるのではなく、「それが何を意味するのか」「その問題がどこにどう関わるのか」を、「ルール推理」といったものを考える側として考えていってもいいのではないでしょうか。

 そもそも私が「本格」にこだわる理由は、それが「推理する」ということを考えるにあたって非常に重要だからです。「本格」における「推理」=狭義の「推理」であり、そこには「推理するためには本格として成り立っている必要がある」という大前提があります。つまり狭義には「推理可能かどうか」は「本格としての条件を満たしているかどうか」と言い換えることができるのです。これは「ルール推理」においても同じことです。「ルール推理の可能性」と口にする人が、「推理」を狭義と広義、どちらの意味で遣っているのか私にもよくわからないのですが、狭義の「推理」を採用してこそ「可能性がある」と言えるのではないでしょうか。


 21日にあれこれ書いてみたことをきっかけに「ひぐらし」を肯定的に捉えている方の意見をいくつか読んだのですが、ことあるごとに作者竜騎士07氏の発言を取り上げて肯定しているような印象を受けました。たしかに作者の意図を把握した上で全体を俯瞰してみると、「ひぐらし」は素晴らしい構造をもつ作品なのかもしれません。しかしだからといって、ミクロな視点、すなわち実際にプレイしたときの問題点が消えてなくなるわけではありません。作品としての可能性を論じるなら、同時にそちらにも目を向ける必要があるはずです。個人の思考・思想を賞賛するのは自由です。ですがそろそろ、その思考を作品として昇華することが本当に可能なのか、具体例など交えつつ分析していくべき時期なのではないでしょうか。


 最後に、冒頭リンク先で、

ネット上で議論するのであれば、むしろ「追加ヒント/エラッタ/修正パッチ」になりうる作者発言を全く考慮しない方が不自然だと言えるのではないでしょうか?

 と述べておられますが、暴論というならむしろこっちのほうがはるかに暴論でしょう。

 ネット上だろうがオフラインだろうが、「作中に提示された証拠のみを用いて真相に迫る」、すなわち推理するにあたって、「作中外の要素」である作者発言を考慮する必要はどこにもないでしょう。最初から掲示板なり日誌を見ることが前提となっているならともかく(というかそれ以前にそもそもその内容を作中に書いておけ、と思いますが)。仮に軌道修正としての作者発言を認めるとしても、その場合プレイヤーに届けるべき義務を負うのは作者側であって、プレイヤーから進んで情報を集めにいかなければならないというのはどう考えてもおかしいと思います。