感動の前に塗りつぶされる敗北の事実――『とある飛空士への追憶』感想

とある飛空士への追憶 (ガガガ文庫)

とある飛空士への追憶 (ガガガ文庫)


 これはひとりの飛空士と未来の皇妃が、社会制度という名の巨大な敵に破れ続ける物語である。

 次期皇妃を偵察機に乗せ、敵機の舞う空を単機で飛行、味方領まで送り届ける。困難ではあるが決して不可能ではない道行きは、しかし、皇子の愚行によって絶望的な旅へと変わる。命の危機にさらされながらも、飛空士は見事に任務を成し遂げ、しばし心を通わせた未来の皇妃に別れを告げる。そうして彼は戦場に戻り、彼女は皇都へと向かう。彼女たちの飛行を恐怖のそれへと変えた男の下に嫁ぐために。

 得をしたのは誰だ。死んでも一向に痛痒を感じない下層階級の傭兵を使い、まんまと名声を得た貴族たちだろう。己の行動で未来の妻を危機にさらしておきながら、名もなき飛空士の英雄的な行動によって、無事妻を娶った皇子だろう。

 その事実はしかし、一見感動的なエピローグの前に顧みられることはない。一時の触れあいをよすがとして、惜しみながらも別れていくふたりの姿の前に、そんな「些末な」問題は簡単に忘れられ、覆い隠される。それは私に、試合に敗れた選手が「がんばったから」と自らを慰める姿を連想させる。

 繰り返す。これはひとりの飛空士と未来の皇妃が、社会制度という名の巨大な敵に破れ続ける物語である。

 シャルルとファナは何も得ていない。勝ったのはただ、制度の下に守られた、一部の特権階級の者たちだけだ。その事実から目を背け、「ひと夏の恋と空戦の物語」による感動を得てよしとする立場に、私は与するつもりはない。


 あるいは――

 この小説そのものが、作中で言うところの、後世に書かれたという『「西海の聖母」若き日のサン・マルティリア脱出に関する真実の記録』なる本なのかもしれない。だとすれば、シャルルとファナがともにどこまでも優等生なことや、シャルルと千々石の間に展開上特に必要とも思われない因縁が持たされていることにも納得がいく。あくまで後世の解釈は後世のものでしかなく、極端な話、その本自体がプロパガンダのために出されたものだとしても決して不思議ではないのだから。

 もっとも件の本は「作家が想像力の翼を可能な限りに折り畳み、客観性の高い硬質な文章で綴っ」ているそうだから、きっとそうしたものとは無縁なのだろう。だが、たとえそうだったとしても、一介の飛空士として戦い、死ぬことを望んだシャルルが、後世になって評価されて喜ぶとは、私にはどうしても思えないのだ。