現実だってそれなりにエキサイティングだ

 アサウラベン・トー』を読んだ。

ベン・トー 1 サバの味噌煮290円 (スーパーダッシュ文庫)

ベン・トー 1 サバの味噌煮290円 (スーパーダッシュ文庫)

 なめるな。

 最初に思ったのはそれだった。

 たしかにストーリーは熱い。半額弁当をめぐる争いに賭ける、人々の熱い想い。それは、設定の馬鹿馬鹿しさと相俟って、より強く読者の心に突き刺さる。下らない、そう切って捨てることのできない強さと勢いが、この作品にはある。

 だが、それでも。私は沸き上がる思いのままに、こう叫ぶのを抑えることができない。なめるな、と。

 なぜなら――自分もまた、この5年近く、半額弁当に人生の一部を注ぎ込んできた《狼》の一人だからだ。


 もちろん、現実にはこの作品のように、総菜コーナーで殴り合ったりはしない。単に半額弁当が食べたいだけなら、夜、ふらりとスーパーに足を向けただけでも、何かしらのものが手に入ったりする。だが、自分の食べたい弁当を、恒常的に手に入れたいと思うのであれば、おのずとそれなりの努力と工夫が必要になってくる。

 たとえば店員が半額シールを貼り出す時刻――「半値印証時刻(ハーフプライスラベリングタイム)」の見極め。それが毎日、定刻にやってくるのであればいい。だがその時刻はしばしば、店員のシフトによって大きく変化する。最大7パターンというシフトを完全に把握し、日によってスーパーに足を運ぶ時間帯を変える。それが一朝一夕にはいかないことは、夜中のスーパーに足を運んだことのない者であっても容易に想像がつくだろう。

 たとえば、その日のコンディションによる誤差。弁当の残り具合や、店員の仕事状況によって、半値印証時刻は前後10分程度は簡単にずれる。「弁当を手にするのは店員が去った後で」などというルールの存在しない現実において、この誤差は非常に大きい。ならば、少し前に来て店員が出てくるのを待っていればいい――正論だ。だが、客も少なく、時間を潰す場所もない夜のスーパーで、空きっ腹を抱えながら、いつ出てくるかわからない店員を待つ辛さはきっと、味わったことのあるものにしかわからない。

 仮に半値印証時刻を完璧に見極め、多少の運に助けられたとしても、そこには必ず「奴ら」がいる。誰がそうとはわからない。直接拳をかわすこともない。それでも「奴ら」はそこにいるのだ。自分と志を同じくし、「半額」の文字が刻まれたプラ容器を虎視眈々と狙う「敵」が。彼らの隙を突き、狙った弁当を手にするためには、刻一刻と変化していく状況に対応するための戦術が必要となる。どの弁当を狙うのか。総菜コーナー内でのポジショニングは。ひとつ間違えば、その瞬間、目標は自分ではない者の手にかっさらわれていく。弁当をカゴに叩き込むそのときまで、決して油断はできないのだ。

 派手ではない。血湧き肉躍る格闘があるわけでもない。そもそも現実には、倒すべき「敵」が存在しない。できるのはただ、目指すものに向けて、己を高めていくことだけ。高めれば高めただけ、自分の望むもの(=食べたい弁当)に一歩近づける。そして、自らの思い描いたとおりに、自らの望むものを手に入れることができたとき。そのときの喜びと達成感はきっと、本を読んだときの興奮に勝るとも劣らない。

 それは紛れもない、ひとつの「戦い」なのだ。


 『ベン・トー』での戦いには、厳然たるルールがあった。シールを貼り終えた店員がバックヤードに消える瞬間に居合わせれば、誰だって戦いに加わることができる。だが、現実にそんなルールはない。いかなる手段を用いても、求める弁当を手に入れれば勝ち。真に弱い者は、スタートラインに立つことすらできないのだ。その意味で作中の戦いは、どこまでいっても「スポーツ」でしかなく、対する現実の戦いは、文字通りの「リアルファイト」なのである。

 さらに、ルールがあるがゆえに――ルールの中であれば、何をしてもいいという前提があるがゆえに、『ベン・トー』の戦いは、結局のところ暴力という原始的な力を用いたものにならざるを得なかった。そこに美しさはない。現実は違う。綿密な計画のもと、最適なポジションを獲得し、他の客の裏を掻いて、望みの弁当を手に入れる。現実の勝利には、どこかスタイリッシュさが漂う。

 『ベン・トー』の戦いが「動」なら、現実は「静」。どちらが正しいとか、優れているというわけではない。しかし、これだけは言える。

 『ベン・トー』はたしかにおもしろい。

 だが、現実だって負けないくらいおもしろいのだ。


 『ベン・トー』における、人々の半額弁当に懸ける想いは、たしかに熱い。けれど、同じ想いを抱いた人間が、現実にいない保証はどこにもない。今日もどこかのスーパーで、半額弁当をめぐる戦いが、人知れず、静かに繰り広げられているかもしれないのだ。平凡な現実の、退屈な日常の中にも、戦いはある。

 そしてそれは、時に虚構よりも激しく我々の心を熱くする。ドラマは何も、フィクションだけの専売特許ではないのだ。