自分のカラダに興味ない性転換キャラはいません

 覗きをしない透視能力者はいない。

 ある日突然、透視能力を身につけた少年。悪意をもってすれば、様々な悪事に利用できる力だ。だが彼は、その力を世のため人のために役立てることを考える。覗きひとつすることなく、彼は悩み苦しむ人々のため、己の能力を用いるのであった――

 んな奴いるか。

 人知を越えた力を手にしておきながら、一度たりとも悪用を考えない人間などいるわけがない。ましてや真っ先に思いつく悪用法が「覗き」であるならなおさらだ。覗きほど、実行へのハードルの低さに比して、実行者が満たせる満足心が大きいものはない。ゆえにそれをノーリスクで行える透視能力者においては、むしろ覗きをしない理由がないのである。「透視能力→覗き」、これはもはや、人間に遺伝子レベルで刻まれた生物としての不文律であり、ゆえに透視能力者は少なくとも一度は必ず覗きをしなければならないとすらいえる。

 そのへんをきちんと描いていたのが「エクスプローラー」シリーズで、だから私はこのシリーズを評価しているのだけれど、このたびもうひとつ、似たようなケースを思いついた。

 自分の身体を弄らない性転換キャラクターはいない。


 ここでいう性転換キャラクターというのは、自分の意志で、現実的な形で性転換を行ったキャラクターではなく、超現実的な力によって性別が完全に入れ替わってしまったキャラクターのことを指す。昔からよく使われてきたネタであり、今更具体例を挙げるまでもないが、とりあえずライトノベルでは『先輩とぼく』や、最近では『リヴァースキス』などが代表例だろう。

 後者は目を通していないのでわからないが、少なくとも前者に関しては、どちらかというと変なキャラクターたちの織りなすドタバタに話の主眼が置かれ、性別が入れ替わったことへの戸惑いははっきりとは書かれていなかったように思う。それはそれでいい。小説では「何を書くか」と同じくらい「何を書かないか」が大事なのだから。

 だがそこで、私はどうしても気になってしまうのだ。

 突然性別が入れ替わってしまった少年あるいは少女は、果たしてまともに生活できるのだろうか。本来ならば、やすやすと見、触れることのできない異性の肉体を、己のものとして手にしてしまったという事実。その現実を前にして、冷静でいられる人間がいるとは、私には思えない。

 トイレに行くたび、風呂に入るたび、異性の身体が目の前に出現する生活。その中に、なんの前触れもなく放り出されてなお、人はそれまで通りの生活を送ることができるものなのだろうか。そう考えてしまったが最後、先に述べたような喜劇は、私の目には急に色褪せて見えるようになってしまうのだ。


 『AKUMAで少女』では、そこんとこを容赦なく、徹底的に、生々しく描き出す。

 例えばこんな調子である。幼なじみの少年と、心と体が入れ替わった少女が、トイレに入ったときの台詞。

「わー、わわぁっ。おっきしたぁっ!! 違うわ。×起だわっ。きゃーっ、これが×起なんだーっ」
(『AKUMAで少女』33ページ)

 好き嫌いはあるだろう。だがここでは、男の身体に入ってしまった少女の驚きや好奇心が赤裸々に描かれている。少女だけではない。少年の側も、「(少女に半ば脅し気味に禁止された)己の肉体と触れあう」という欲求との戦いを余儀なくされる。加えてブラジャーのつけ方に苦悩し、女子特有の連れション文化に戸惑うなど、フィジカルなだけでなくカルチュラルなギャップとの戦いをもしっかりと描いている点も見逃せない。

 その根底にあるのは「男と女は違う」という、切なくも揺るぎない真実である。自分にないものを持つ者に、人は憧れる。ゆえに人は異性を求める――身体が入れ替わってなお互いに惹かれ合う、僚とゆり絵のように。


 人は他人にはなれず、他人を理解することはできない。男と女であればなおさらだ。異性の他者を理解することなど、それこそ人格を交換でもしない限り不可能だろう。それが現実で行えない以上、描く場所はフィクションの中でしかありえない。結果、必然的に物語は、性別が入れ替わったことによる違和感を描くことを求められる。そうして初めて、男同士でも女同士でもない、男と女の人格交換を描いた作品としての意義が生まれるのだ。

 だからこそ、その違和感を生々しく描写したこの作品は紛れもない良作であり、性転換ものの歴史に残る1冊と言えるのである。

 魔法少女になりたいなあ。


AKUMAで少女 (HJ文庫)

AKUMAで少女 (HJ文庫)