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 先のエントリで私の書きたかったことというのはつまるところ「大事なのは質と量の掛け算」この一点であり、この点に関して私個人は現状で十分すぎるほど満足しています。こうした立場から見ると、もっと拡大して欲しい、するべきだという人は結局のところどうなれば満足なのか、というのが率直な疑問としてあるわけです。(3冊、100冊というのは単なる比喩です)

 経済的、時間的余裕がある人にとってはさらなる市場の拡大は単純に歓迎すべきことなのかもしれません。その一方、どうがんばっても月に3冊しか買えない、という人もいるわけです。である以上、読者のキャパシティを優先に考えるのはナンセンスでしょう。「ライトノベル」と呼ばれる総体にとって(あるいはそれを取り巻く業界にとって)、安易な拡大が幸福へと繋がる道であるかと問われれば、私は否であろうと答えます。

 「粗製濫造を防ぐのは当然の大前提」と書かれていますが、そもそも私が書いたのは「点数の増加は粗製濫造を招く」ということなわけで、それをなんの具体策の提示もなしに「当然の大前提」とされても困ります。「点数が増えることで良作が増える」という考え方についても、その「良作」というのが、駄作・凡作が増えたことで閾値が下がった結果生まれた「良作」であればなんの意味もないでしょう。

 また、メディアとしても一般的な小説と違う、とのことですが、それを言うなら漫画とも1冊あたりの読む時間が違う、市場規模が違う、読者層が違う、作品提供の構造*1が違う、というように様々な違いがあります。小説とは違うからといって、安易に漫画との比較が成り立つというわけではないでしょう。

 雑誌の件については、「雑誌が欲しい」というからにはそれを実現するための具体案にまで多少なりとも踏み込んでいるのだろう、と考えて件の記事を拝読しました。しかし読んでいるうちに、そうではなく、何となくこんなのが欲しいなぁ、というのを書き連ねているだけなのかもしれない、と思いはじめましたので、そうなのでしょうか、と問う意味で「ネタでしょうか?」と伺いました。表現に問題があったようでしたらお詫び申し上げます。


 別のところでも書きましたが、私のほうではsirouto2さんの先のエントリにおける、

新本格では「現代学園異能」(中略)が特徴になっています。

 との発言を指して、「そのようなムーブメントが起こっているという言説」という表現を用いました。そしてそれを受けて、

一応は売れている電撃なのだから、それをムーブメントと呼んでもさほど差し支えないでしょう。

 とのことですが、はたしてそうでしょうか。多少ほかのレーベルより売れているからといって、「電撃のムーブメント=ライトノベルのムーブメント」としていいとは私には思えません。レーベルによらず、現代学園異能的作品が明らかに増える、あるいはそのような作品だけが目立って売れている、といったような「より強固な根拠」があってはじめて「新本格の特徴」と言えるのではないでしょうか。

 「定義不可能だから議論が続く」のはたしかにそうでしょうが、不可能とわかっていて続けるような議論はもはや議論ではなく単なる言葉遊びでしょう。私個人はそうした「議論のための議論」には興味がないので、なんとかしてライトノベルというものを「定義」しようとしているわけです。

 「仮説に過ぎない」「限定的な記述に過ぎない」などというのは断るまでもなく当たり前の話で、こうして私が書いていることも「仮説」であり「限定的な記述」でしかありません。そうした無数の「仮説」を戦わせる中で、最も事実に適している論を模索していく、それが「議論」です。「『各出版社の方針』と一言で片付けられるかもしれない」「今後百年というようなスケールで見ればまた違ってくるかもしれない」――まったくもってその通りですが、だからといって何もかも「かもしれない」ですませていては何も話が進みません。私が行っているのは、そうしたいくつもの「かもしれない」を「である」または「でない」に変えるための作業です。

*1:ライトノベルは基本的に文庫書下ろしですが、多くの漫画は雑誌掲載→単行本化、という流れをとります。