トラックバックへの返信

 私がコメント欄で書いた釣り合い云々というのは、出版社にとっての釣り合いを意味します。では読者にとってはどのような状態が「釣り合っている」といえるのかといえば、これはもう「良質な作品が、自分の手に入る範囲の量だけ刊行される状態」以外にないでしょう。たとえ月に3冊しか本が出なくても、それがすべて良質の作品であれば読者は満足するでしょうし、月100冊刊行されたところですべて駄作であれば残るのは不満だけでしょう。刊行数が増えればその分良作も増える、という考え方もあるでしょうが、一方で粗製濫造という弊害が生まれることを考えると、一概に点数が増えることがいいことだとは思えません。大事なのは質と量の掛け算でしょう。

 そもそも、いまのライトノベルを1冊大体600円と考えると、最高でも*1中学生で月に4〜5冊、高校生でも10冊買えない*2計算になり、明らかに供給過多です。もちろん大人を基準にすれば話は違ってきますが、大人がたくさんの種類の作品を買うことで、売れる作品の閾値が下がり、質が低下する、となれば本末転倒です。

 また、ライトノベルと漫画作品との類似についてはいろいろなところでしばしば指摘されるところですが、それはあくまで内容面での話であり、「漫画」と「小説」というメディアとしての明確な違いがある以上、消費を考えるという観点から語る際には、それぞれのメディアにおける基準を用いるべきだと思います。

 一時的に点数が増えることで競争が強まり、結果良質な作品、レーベルが生き残る、ということであれば私も歓迎します。ただ、刊行点数が際限なく増えることについては、個人としても業界的なことを考える上でもあまり感心しません。

 あと、その上の「世界で一番美しいライトノベル雑誌」の内容はネタでしょうか。いや、あまりにも内容に無茶な部分が多いように思いますので。

 私の書いた「スレイヤーズ以降、ブギーポップ以前」というのは消費構造変化における話ですよ、と一応断っておいて。

 最近たまに言葉を見かける「現代学園異能」ですが、私個人としてはそのようなムーブメントが起こっているという言説に対して非常に懐疑的です。はてなのキーワードを見てもほとんどが電撃の作品で、たまたまここ最近電撃から似たような作品が続けて出ているだけなのでは、という気がするのです。それだけなら「電撃の方針」のひと言で片付けられる話であり、それをライトノベル全体に敷衍させるには、より強固な根拠が必要でしょう。

 むしろ内容的な話をするなら、長らく多くのライトノベルで用いられてきた冒険・バトル要素が、最近ではさほど重要ではなくなりつつある、というような事柄のほうが重要ではないかと思います。そのような変化が起こっている根拠としては、『半分の月がのぼる空』に代表される超能力者不在の物語の登場や、『神様家族』『吉永さん家のガーゴイル』などのほのぼのハートフル路線の台頭が挙げられます。

 私自身は、このように内容面からライトノベルの歴史を追っていくことにはあまり意味がないと思っています。というのも、ライトノベルの中にはSFやファンタジー、ラブコメなど多種多様なジャンルの作品が含まれるわけで、それをたとえば「セカイ系」みたいなほかの言葉に置き換えたところで同じことだと思うからです。しかも「セカイ系」や「萌え」といった要素を含む作品が登場しているのはライトノベルに限った話ではなく、それをライトノベルの流れとしてしまうことには少々異論があります。

 ちなみにこのような話をするときに、東浩紀大塚英志の考えを下敷きにするのは危険だと思います。彼らに見えているのはライトノベルのごく一面に過ぎず、私などはそれをライトノベルと呼ぶことに強い抵抗があります。