「ひぐらし」は、謎がすべて明らかになった「エヴァ」である、という仮説
話がどんどんいろんな方向に広がっていくのでどうしたものかなあ、と思ったのですが、とりあえずもう少しだけ「ひぐらし」という作品に付き合ってみたいと思います。
そんなわけで、少々反応が遅れましたが、まずは下の記事から。
答えつき設定考察ものであるひぐらしのなく頃に - Marginal
この記事を読んで最初に思い浮かんだのが「もしエヴァの謎がすべて明かされていたら」というものでした。
ここでいうエヴァとはもちろん「新世紀エヴァンゲリオン」のことです。放映当時、物語内の様々な謎を巡ってたくさんの謎本が刊行され、他人と議論を交わし合った記憶は、当時からオタクだった20代以上*1の方の記憶にまざまざと残っていることと思います。この現象は、今回の「ひぐらし」のものと見た目としては非常によく似ています。
決定的に違うのは、上記記事でも指摘されているように、「ひぐらし」が最終的に謎の答えを明かしたのに対して、エヴァの謎は最後まで明かされなかった、ということです。もう一歩踏み込むと(やはり上記記事の指摘と重なりますが)「ひぐらし」はもともと謎が明かされる前提の作りをしていた、と言い換えることができるでしょう。「ひぐらし」問題編が(狭義)ミステリの要素を多分に含んでいるというのは、だれもがもつ共通認識だと思います。謎が最後まで明かされないミステリなど、ごく一部の例外を除いて基本的にあり得ません。「ひぐらし」は、隠されている真相がどんなものであろうと、最終的に明かされることが最初から約束されていたのです。
にもかかわらず「ひぐらし」は謎が明かされたあとで「ミステリーじゃない」といった強い批判を受けました。一方のエヴァは、様々な謎を残したまま物語が終わったものの、それを非難する声を聞いた記憶はあまりありません。
この違いはひとえに、「ひぐらし」では、解こうとしていた謎と、明かされた解答とでは、その質が大きく異なっていたからです。「ルールを見つけて欲しかった」作者に対して、プレイヤーはあくまで「犯人を見つけようと」していました。要するに、「ひぐらし」問題編を読んで、プレイヤーたちが他人とあれこれ言い合いながら行っていたのは『設定考察』ではないのです。
ゆえに、
また、その一方で回答をすると約束されたからこその盛り上がりというのもこの作品の特徴ではないかと思います。
今までの設定考察ものは答えが出ないのである程度のところで納得するしかなく、絶対に完全な解に辿り着くことはなくある種の徒労感がぬぐえないのですが、ひぐらしの場合は答えが出ることが分かっているためある種安心して(無駄になることがないので)考えることができます。
その安心感がそのゲームについて考えることを促進させ、これだけ大きな反響を得たのではないかと思います。
の部分は、「『回答をすると約束された』解答」が、もともとプレイヤーが導き出そうとしていたものと質的に異なることを考えると、ちょっと文脈に合わない気がします。もっとも、同時にプレイヤーが求めていた解答も提示されたわけですし、結論としては正しいと思います。ただ、最初から設定を考察させるのではなく、最初は「犯人当て」というキャッチーなところから入っていくことに(結果として)なったからこそ、ここまで盛り上がったのだという気もします。「最初から設定考察」だと、そのあたりちょっと微妙かなと。
もちろんこれは、作者の意図したものがうまく機能しなかった中でのいわば「怪我の功名」的な結果ですし、問題と解答のズレという問題もあったわけですが。
とまあ、こんな感じで私としては、たしかに「ひぐらし」には「答えつき設定考察もの」という一面はあるだろうし、それが真に作者の意図したものでもあるだろう、とは思うのですが、どうしてもあとづけの定義だなあという印象はぬぐえません。
ぶっちゃけ「三つのルール」って、物語上存在する必要性はなかったと思うのですよ。その延長上には結局事件の「犯人」がいるわけですし。問題編プレイ中、プレイヤー的に知りたかったのはあくまで、具体的な「事件の犯人」だったと思うので、明かされないなら明かされないでも良かったような気がしています。
作者の意図も理解した上で改めて物語を見返すと、たしかに「三つのルール」を中心に綺麗にまとまっていると思いますけど、それを問題の段階からプレイヤーに考察させることができるか、そしてそのことにどんな意味があるのか、と考えていったときに、私個人としては、うーんどうだろう、という感じです。
とりあえず次に考えることがあるとすれば、作者が真にやりたかったのは「設定を考察させること」だったと仮定して、どうすれば作者の意図がプレイヤーに伝わっていたか、といったあたりでしょうか。この話題はまた別の機会にでも。
というかそもそも「設定考察=エヴァ」という認識が誤っている可能性があるというのが何とも恐ろしいわけですが。ガクブル。
*1:とかいう断りをいけないといけないくらいには昔の作品になってしまったんですね。10年か……
「ひぐらし」とゲーム攻略
あとこちらも反応遅れましたが、下記の記事についても少々コメントをば。
1段目はOKなので2段目について。
>ここで重要なのは「『推理する』ことをプレイヤーに強く要請していたこと」と、「ここで『推理する』とはあくまで本格推理モノの文脈に乗っ取って行われる行為であること」の2点です。前者は言わずもがなですし、後者もとりわけそうではないことが強調されてはいなかった以上、当然のことだと思います。
少々気になる部分です。
果たしてそうでしょうか?
ここで私が「本格推理モノ」と言っているのは、別に本格推理モノの原則をガチガチに守って云々、とかいうことではなく、単純に「論理的に解答を導き出せるもの」といったような意味で遣っています。ある謎が与えられたときに、まずは論理的に答えを見つけようと考えるのは当然の流れだと思います。書かれた方ご自身も記事中で、
裏の取れない推理は、言ってしまえば妄想と同様です。
と仰っていますし。
結果的に「ひぐらし」の謎は「妄想」を働かせないと導き出せないようになっています。要するに「推理」の定義を拡大解釈する必要があったわけですが、そうせずに最後まで論理的解決にこだわることはおかしなことではなかったと思いますし、そのような姿勢をとっていた人たちからの「論理的に出せない解答だ」という批判は(すでにあちこちでなされてますが)作者や「ひぐらし」を肯定的に捉えている方々は真摯に受け止めなければならない部分だと思います。
これに対する「楽しみ方が狭い」というような指摘については、個人の「どう思うか」という領域の話なので特にコメントはしません。私としては単純に、作品の欠点として指摘するにとどめておくつもりです。
実を言うと私としては、こちらよりも下記の記事のほうに感銘を受けました。
インターネットを利用して推理のための情報交換をさせる、という試みの面白さと可能性については、私も今回あれこれ書いてきた中でちらりと書いた記憶がありますが、そこまで踏み込んでは考えなかったので素直になるほどと思いました。
要するに、昔は友達同士でゲームの解法についてあれこれ相談していた、その役割を現在はネットが負っているということなのですが、友達とネットでは参加する人数の規模がまるで違います。その結果、大抵のゲームは2、3日もあれば解法や裏技がアップロードされてしまうわけです。反則気味ではありますが、ソフト自体の解析という方法もありますし。
対して「ひぐらし」は、問題編と解答編を複数に分割し、期間を開けてリリースすることで、「多くの人間に、時間をかけて考えさせる」ことに成功しました。ソフト解析という手法も、そのソフトの中に解答が記されていない以上効果はありません。「ひぐらし」のシステムは、ネット上において「友達同士の相談」を実現させた、画期的な方法だったと言えるでしょう。
もっともこの方法は、問題編の段階からたくさんの人々が議論に参加していないと効果がないわけですが、結果的に「ひぐらし」はその壁をも乗り越えました。これについては「解答がない作品をリリースし、推理させる」という手法が受け容れられたこと、そしてそれを可能にした「ひぐらし」の「読み物としての面白さ」を賞賛するべきだと言えるでしょう。
そういう私は、実は今に至るもネット上の議論には一切参加してこず、作者のコメントなどもほとんど見ずに来ていたのですが、今回の「ひぐらし」に関してはそういうスタンスのほうがむしろ異端なのでしょうね。
ただまあ、問題編でのヒントを少なくすることで、解答を論理的に出せなくしたのはちょっとずるいなあ、とは思います。作り手側としては、解答編リリース前に解答を出してもらっては困るわけですから、問題のレベルを高く設定するのは当然のことですが、答えが出せないところまでヒントを絞り込んでしまったのは非常に残念です。おかげで私なんかは問題編を終えたときに「すべての謎を無理なく説明しきる、これまで誰も気づかなかった超ロジカルなトリックが明かされるに違いない!」とかいう期待を抱いてしまいましたし(笑)。